岸田 劉生 「麗子像」 Ryusei Kishida
- 管理No.16-10397
- 作家名岸田 劉生 (Ryusei Kishida)
- 作品名麗子像
- 年 代1955年頃
- 技 法木版画 (Woodblock)
- サイズ38.2×29.8cm(I)
- レゾネ
- 体 裁額装
- 備 考版上サイン/版元:加藤版画研究所/裏面に2箇所テープ跡/63×55cm(F)
岸田 劉生 (きしだ りゅうせい) 1891~1929
1891年 明治の先覚者,岸田吟香の子として東京銀座に生まれる。弟は,浅草オペラで活躍し宝塚歌劇団の劇作家になる岸田辰彌
1908年 白馬会葵橋洋画研究所に入り,黒田清輝に師事
1910年 文展に2点の作品が入選
1911年 20歳のとき,雑誌「白樺」を読み,ルノワール・ゴッホ・セザンヌ・ゴーギャン・マティスなどの作品を知り,感動する
雑誌「白樺」主催の美術展がきっかけで,バーナード・リーチと出会う
1912年 白樺同人の柳宗悦や武者小路実篤らと知りあい,刺激を受ける。高村光太郎・萬鉄五郎らとともに,ヒュウザン会を結成
第1回 ヒュウザン会展には14点を出品。これが画壇への本格的なデビューといえる
(なお,ヒュウザン会展は2回で終了し,1913年の第2回展ではフュウザン会と改称していた)
劉生の初期の作品は,ポスト印象派,特にセザンヌの影響が強いが
この頃からヨーロッパの,ルネサンスやバロックの巨匠,特にデューラーの影響が顕著な写実的作風に移っていく
1915年 現代の美術社主催第1回 美術展(第2回展以降の名称は「草土社展」)に出品
草土社のメンバーは,木村荘八・清宮彬・中川一政・椿貞雄・高須光治河野通勢らであった
草土社は,1922年までに9回の展覧会を開き,劉生はそのすべてに出品している
1917年 結核を疑われ,友人武者小路実篤の住んでいた神奈川県藤沢町鵠沼の貸別荘に
転地療養の目的で居住(結核は誤診だといわれる)
1918年 この頃から,娘の岸田麗子(1914~1962年)の肖像を描くようになる
1920年 30歳になったことを期に日記をつけはじめ,「全集」の一部や「劉生日記」(岩波書店,1984年)にまとめられている
劉生を慕って,草土社の椿貞雄や横堀角次郎も鵠沼に住むようになり,中川一政らのように岸田家の食客となる若者もいた
1923年 関東大震災で自宅が倒壊し,京都に転居し後に鎌倉に居住。この鵠沼時代が,岸田劉生の最盛期であった
劉生の京都移住に伴い,草土社は自然解散の形になったが,劉生を含めメンバーの多くは春陽会に活動の場を移した
1929年 南満州鉄道(満鉄)の招きで,生涯ただ一度の海外旅行に出かける
大連・奉天・ハルビンなどに滞在。帰国直後,滞在先の山口県徳山(現,周南市)で尿毒症のため死去
38歳の若さであった。墓所は,多磨霊園にある
当時から,潔癖症で知られており,汚物が腕に付着したことがあった時には「腕を切り落とせ」と言い張り,周囲を困惑させたことがありまた,癇癪持ちで気に入らないことがあると当り散らすなど,社交的とはいい難い人物であった。晩年までパリに行くことが願望であったが,「パリに行った暁には,フランスの画家に絵を教えてやる」などと豪語していた。